感情的認識と理性的認識sensuous cognition and rational cognition (75-6)

最終更新日:2002年05月10日 船戸和弥のホームページ

哲学事典(森 宏一編集、青木書店 1981増補版)から引用:括弧内は参照頁。

 古くから認識の源泉、真なる認識の拠をもとめて、二つの立場、経験論と合理論との見解がみられる。すなわち、感情的認識に重点を置く立場、感覚をみなもととし、これにもとづく認識を主張したのが経験論であり、他方、理性的認識の側に重点をおく立場、感覚による認識を低くみるとか、または真なる認識の視覚はないとかとして、思想の側にのみ拠る知識(この知識の典型の一つを数学に見いだす)をとりあげる合理論が、たがいに対立しながら解かれてきた。ヨーロッパの哲学史では、プラトン、アリストテレス、中世のスコラ学は合理論の立場をしめし、中世後期の実在論・唯名論普遍論争は、合理論と経験論対立のいちじるしい例であった。経験論は近代にはいって、とくにF.ベーコン、ロックらによって唱えられ、また合理論はデカルト、スピノザらにによって主張された。ふつう、カントがこれら両論の統一を試みたとされる。しかし、かれは、認識活動をする人間の意識における、完成および悟性・理性に先天的形式なるものをたてて、これで主観的観念論の見地のもとで統一総合をはかったのであって、そこには客観的実在(物自体)は不可知だとする不可知論が結果していた。マルクス主義の唯物論哲学が出現して、認識の過程を唯物論による弁証法的見解をもってとらえ、感情的認識の側と理性的認識の側とを正しく統一的に理解し、認識の全面的把握をかちえた。人間の認識は、によりもまず、感覚を通じて客観世界とむすびつき、この世界を認識する発端をうる。このさい、人間の物質的生産活動なる実践が人間を客観世界とむすびつけるものであり、これに応じて感覚は人間にその世界のありさまを伝える。感覚は外界対象のさまざまな外面的性質を伝える(冷熱・色・香・硬軟などの区別や諸対象の総意や変化や関係など)。これら多くの感覚、これらによる肝炎が、生活の実践のなかで積み重ねられていくことで人間の思考作用(これには言語の役割が大きい)の発展があり、一般的・概括的な認識が生じてくる。すなわち、概念・判断・推理・結論などという抽象的―論理的操作である。感性による認識はその集積の結果として、感覚にもとづく多様な外界対象についての認識に概括・一般化されて、外面的な事物の認識がたんにこれにとどまらずに、それら事物の内部にひそむ本質、そして法則をとらえうるようになる。これは理性(思考作用)による認識であり、こうして、認識は感性的阿物からはじまって、理性的なものへと発展する。ただし、理性的認識が諸事物の本質・法則をとらえるといっても、これは感性的認識をまたないでは成立しないとは上述にみるとおりでありこれら両者を分離して別個の認識とするのは誤りであることが、マルクス主義唯物論の認識論で明らかにされる。