マルクス Marx, Karl 1818~ 1883

最終更新日:2002年05月10日 船戸和弥のホームページ

哲学事典(森 宏一編集、青木書店  1981増補版)(p451-452)から引用

 科学的社会主義―共産主義の創始者、弁証法的および史的唯物論および科学的経済学の樹立者。 5月5日にライン州のトリール市に、豊かで教養ある弁護士の家庭に生まれた。父はユダヤ人で、1824年にプロテスタントに改宗した。マルクスはトリールの高等学校をおえて(1835)、ボンおよびベルリン大学にまなび、法律学をおさめたが、とくに歴史と哲学とを研究した。この時期にはまだ、かれはヘーゲル派の観念論者であった。

 ベルリンで青年ヘーゲル派の仲間にはいり、かれはこの派の最左翼にたち、革命的民主主義の思想にたっていた。教授になることを志したが、当時の反動政策を考慮してそれを放棄し、1842年に《ライン新聞》の編集に参加し、主筆となり、この新聞を革命的民主主義の機関紙にかえた。かれはその活動と理論研究とから、ヘーゲル哲学の妥協的傾向・保守的な政治的立場、その原理と現実の社会間係およびその変革の課題とのあいだに見いだされる不一致をみてとって、ヘーゲルからはなれ、さらに青年ヘーゲル派にも満足せず、フォイエルバッハの唯物論へ、また現実についての経済の研究へとすすんだ。そこから、かれは革命的民主主義からプロレタリア共産主義へ、労働者階級の立場へと革命的な変化をおこなった(1844)。

 これが起きたのは、ヨーロッパにおけるプロレタリア階級闘争の進展であり、シュレージェン地方の繊維労働者の蜂起、またかれ自身のパリでの革命闘争への参加が、大きな要因をなした。《ライン新聞》が閉鎖された(1843)のち、かれはパリに移住し、その地で同志とともに《独仏年誌》(1844)をだして、それに《ヘーゲル法哲学批判》《ユダヤ人問題》を発表し、かれの経済学と歴史、および空想的社会主義の研究のうえにたって、プロレタリアートの歴史的役割、社会革命の不可避なこと、労働者運動と科学的世界観の結合の必要さを説きしめした。この時期にマルクスはパリでエンゲルスと会見し(1844.9.)、以後まれにみる友情でむすばれ、活動をともにすることになった。

 この二人は系統的に新しい世界観の仕上げにつとめ、その主要な原理は、マルクスの《経済学・哲学草稿》(1844)、エンゲルスと協同の《聖家族》(1845)、同じく《ドイツ・イデオロギー》(1845~1846)、およびマルクスの《フォイエルバッハにかんするテーゼ》(1845)、《哲学の貧困》(1847)となって形成された.こうして、マルクス主義は総合的な科学として、その構成部分(哲学・経済学・社会主義)が統一的に表明された。1847年にはマルクスはブリュッセルに住み、ここで秘密結社<共産主義者同盟>にくわわり、その第二回大会で積極的に活動した。大会はマルクスとエンゲルスにその綱領の起草を依頼した。これによって、有名な《共産党宣言》(1848年2月発表)が書かれ、マルクス主義の基本的立場がそこに結実され、<新しい世界観、社会生活の領域を含む首尾一貫した唯物論、もっとも全面的で深遠な発展学説である弁証法、階級闘争および新しい共産主義社会の創造であるプロレタリアートの世界的・革命的役割についての理論が、天才的な明瞭さとあざやかさでえがかれている>(レーニン《カール・マルクス》)。

 1848~1849年のドイツの革命の時期、かれは《新ライン新聞》の主筆となって活動し、革命の前線にたって戦った。この革命の敗北により、かれはドイツから追放され、ふたたびパリに赴いたが、そこからも終われて、ロンドンに移り終生この地ですごすことになった(1883年3月14日死)。<共産主義者同盟>の解散(1852年)ののちも、労働運動の活動をつづけ、1864年に第一インターナショナルを創立し、この組織を主宰しながら、多くの国ぐにの労働運動を結合し、その運動を詳細にしらべ、非プロレタリア的・前マルクス主義的社会主義者を統一しながら、これらの立場の誤りとたたかった。これらすべてのマルクスの活動は、かれの理論に不可欠な材料をあたえ、その理論の展開に役だった。社会主義革命と階級闘争・ブルジョア革命においてのプロレタリアートの戦術・労働者と農民との同盟の必要性・革命におけるブルジョア国家機関の破壊・プロレタリアートの独裁についての構想などが、そこから生みだされた。《フランスにおける階級闘争》(1850)、《ブリュメール18日》(1852)、そしてパリ・コンミューン(1871)の経験からえて書かれた《フランスにおける内乱》(1871)に、それらの思想がしめされている。《ゴータ綱領批判》(1875)には、科学的社会主義―共産主義の見解がさらに発展させられて説かれた。マルクスは経済学に主要な努力をそそぎ、生涯をかけて《資本論》の仕上げに傾倒した。この著作は経済学にかんする画期的なもので、共産主義を基礎づける科学的成果であるばかりでなく、唯物論と弁証法とにとって哲学的意義の比類のない宝庫をなしている。

 《資本論》はマルクスの生時に第1巻がだされ(1867)、第2、第3巻はエンゲルスの手によって編纂されてだされた(1885,1894)。レーニンが指摘しているように、《資本論》において、マルクス主義の提出した見解が仮説の段階から科学として確立されたのである。それ以前に書かれた《経済学批判》序言に、史的唯物論の基本的立場が要約されていることは、よく知られている。こうして、マルクスの残した成果は、盟友エンゲルスともども、以後、人類の進む道を照らしだす燈台となってますます輝きをましている。