自然科学的観念論 naturwissen-schaftlicher Idealismus(174)

最終更新日:2002年05月09日 船戸和弥のホームページ

哲学事典(森 宏一編集、青木書店 1981増補版)から引用:括弧内は参照頁。

 自然科学は、その研究対象である自然および自然の法則の客観的実在性を承認し前提する立場、つまり唯物論の立場にたってはじめて可能なものであるが、自然科学の成果が正しく理解できないために、また、科学者が当面する問題の困難に打ちひしがれるために、一部の自然科学者や哲学者がそこから観念論的結論をひきだす場合がある。それが自然科学的観念論である。レーニンは、《唯物論と経験批判論》第5章で、感覚内容の感覚器官への依存性を過大評価して前者が各巻的実在の主観的な像であることを否定する傾きがあった生理学者ミュラー(Johannes P. Muller, 1801-58)の思想をフォイエルバッハ<生理学的観念論>と名付けて批判したのをとりあげ、かれ自身は、<物理学的観念論>の名のもとに、<感覚においてわれわれにあたえられ、われわれの理論によって反映されている客観的実在の否定、あるいはそういう実在の存在にたいする疑い>を基本思想とする一連の経験批判論者を批判してきた。この主観的観念論の発生原因は、レーニンによれば、二つある。第一は、物理学の進歩そのものがもたらした、数学者による物質の忘却ということであった。<《物質は消滅し》、方程式だけがのこる。新しい発展段階で、いかにも新しいもののように、理性が自然に法則を指示する、という古いカント主義の考えが現われる。>第二は、<物理学の危機>を目撃してこれまで不動のものとみなされてきた古い理論がただの相対的心理にすぎないことを知った物理学者達が、弁証法をしらなかったということである。絶対的真理は存在せず、古い心理はすべて相対的心理に過ぎない、だから、人類から独立した客観的心理はない、とかれらは論じたのである。これは自然科学的観念論の過去の例である。今日でも、電子に<自由意志>をあたえたり、神が創造したという1個の原初原子から宇宙膨張をはじめさせて、神を滑り込ませたりする自然科学的観念論には事欠かない。