経験experience

最終更新日:2002年05月09日 船戸和弥のホームページ

哲学事典(森 宏一編集、青木書店 1981増補版)(p110)から引用

 哲学で経験というときには、感覚や知覚によって直接的にあらえられる認識である。この経験を解釈するにあたって、二つの仕方が存在している。一方では、経験は経験する主観から独立に存在する客観世界を最初に反映しているという見解。これによれば、伽観世界は経験を通じて人間に認識されることになる。この見地は唯物論の認識論をなりたたせる。他方では、経験はたんに主観の意識上の事実にほかんらず、これが客観世界とむすびついているという見解をとらない。したがって、この認識上の事実を出発点として(つまり客観世界を写しているとみないで)、そこから人間における認識を論じてくると、意識における感覚的認識をともにして客観論の認識論がつくりだされる。経験は、それ自身だけで充分な認識をあたえるものではなく、これを基礎にして思考の働きが加わらなければならない。経験は事物の認識の外面的なものにとどまるからである。この思考の働きがたいせつだということから、認識は経験にもとづくのではなく、本来、思考によって成立するものであり、認識の本源は思考にあるという合理論の主張が生じる、また、唯物論的知見から経験が客観世界を認識するものだという場合、経験されて意識に観念としてあらわれているものが、客観世界を写しているという保証をどうしてあたえるかとう問題が、観念論の認識論にたつ側から提出される。マルクス主義以前の唯物論では経験を、認識がただ客観世界からあたえられるものをうけるというふうに、受動的にのみとらえていたので、この問題にこたえるすべがなかったマルクス主義哲学は、経験はたんに受動的な客観世界の写しではなく、人間の生産活動をはじめとする実践のうちで獲得するものにあることを明らかにすることで、認識につくられた観念が客観世界の真の写しであるかどうかは、実践によってためされ実証されるという答えがだされ、観念論の側の問題提起は意味を失うように至った。このような経験の理解は、それに基づく思考のはたらきについても新しい光をなげかけ(→感性的認識と理性的認識)、経験を基本とする唯物論の認識論の、観念論に対する優越性をしめすにいたっている。→経験論、合理主義、不可知論