エンゲルス Engels

最終更新日:2002年05月09日 船戸和弥のホームページ

哲学事典(森 宏一編集、青木書店 1981増補版)(p34-35)から引用

 マルクスとともにマルクス主義、その科学的共産主義理論、弁証法的および史的唯物論の創始者、国際労働者階級の指導者。ドイツのライン州バルメン市に、1820年11月28日、紡績工場経営者の家庭に生まれ、高校を中退、ブレーメン市の商館に商業見習いとして勤め、1841年秋から砲兵志願兵としてベルリンで兵役につく。この間にベルリン大学に聴講。若いころから当時の社会の改革に関心をよせその運動に加わったが、ベルリン滞在中に青年ヘーゲル派の仲間となり、ベルリン大学教授シェリングの反動的・神秘的哲学にたいして優れた論文<シェリングと啓示(Schelling und Offenbarung)>(1842)その他で反論した。同時にヘーゲルの保守的結論、その観念論的弁証法の矛盾を批判している。1842年晩秋、父のすすめでその経営するイギリス・マンチェスターの商館に勤務、当時資本主義のもっとも発達した国の労働者階級に接し、その厳しい経済状態、政治的無権利の原因探求へ意をむけ、かつそのころ展開されていたチャーティスト運動の見解と運動の欠点をみ、その成果は《経済学批判大網(A Contribution to the Critique of Political Economy)》(1844)および《イギリスにおける労働者階級の状態(Die Lage der arbeitenden Klasse in England)》(1845)にまとめられた。これらの著書でブロレタリアートの偉大な未来とそれが果たすべき歴史的使命を明らかにした最初の人となり、確固たる社会主義としてたちあらわれた。イギリスからの帰国の途次パリでマルクスと会い、以後かれらの固い友情と協力がはじまる(1844)。かれらはまず、1844~46年に、共同著作《聖家族(Die heilige Familie)》と《ドイツ・イデオロギー(Die deutsche Ideologie)》を書き、ヘーゲル、フォイエルバッハ、青年ヘーゲル派、それらの追従者たちの哲学的見解を批判し、同時に弁証法的および史的唯物論の土台石をおいた。また、のちのブロレタリアートの革命政党となるべき共産主義同盟を組織する実践活動をおこない、その同盟の綱領としてあらわれたのが《共産党宣言(Manifest der Kommunistischen Partei)》(1848)で、エンゲルスはその草案《共産主義の原理(Prinzipien des Kommunismus)》を書いている。1848~49年のドイツにおける武装闘争を含む革命のなかでかれは砲火の洗礼をうけ、革命敗北ののちドイツをはなれ、やがて再びマンチェスターの商館で働いた(1850~70)。この革命闘争の経験をもとにして《ドイツ農民戦争(Der deutsche Bauernkrieg)》(1850),《ドイツにおける革命と反革命(Revolution und Kontrarevolution)》(1951~52)が書かれ、プロレタリアート解放闘争での同盟者たる農民の意義を明らかにしている。当時すでにロンドンにいたマルクスとともに第一インタナショナルを結成、この組織内の小ブルジョア的、日和見主義的、無政府主義的見解とたたかい、またマルクスの《資本論》の完成を助けて研究・生活上の援助に力をつくした。この間、かれ自身は弁証法的および史的唯物論の見地を発展させ、自然科学にこの見地を適用するうえで大きな成果をあげた。遺稿《自然弁証法(Dialektik der Natur)》は、その輝かしい記録である。かれは弁証法的唯物論の立場から哲学の基本問題を確定し、認識論の発展に寄与し、史的唯物論の機械的理解を批判しながら、経済的条件のデューリング論(Anti-Duhring)》(1878),《家族、私有財産および国家の起源》《(Der Ursprung der Familie, des Privateigentums und des Staates)》(1884),《フォイエルバッハ論(Ludwig Feuerbach)》(1886)にみられる。かれは1870年ロンドンに移って、マルクスと協働し、かれの死後(1883)は《資本論》第2,3巻の刊行に没頭しながら、マルクス亡きあとのヨーロッパ諸国の労働運動の中心的指導人物の地位にたち、1895年8月5日その生涯がとじられた。死因は食道ガンとされている。遺骨はかれの遺志により海底に沈められた。